2009年11月17日

あんぽ柿の 開発と普及

宝暦年間(1751年~1763年)五十沢(いさざわ)の七右衛門がどこからか蜂屋柿を五十沢にもちこんだのが、五十沢の柿栽培の始まりと伝えられている。そのため、江戸時代の五十沢では蜂屋柿を七右衛門柿と呼んだ。蜂屋柿の皮を剥いて連(れん:柿を干すための縄)にさげて天日で乾燥した干し柿を、江戸時代には天干し柿(あまぼしがき)と呼んでいたため、これが「あんぽ柿」という名称の由来と推察されている。当初は一般的な干し柿と同じように黒ずんだ色で、これは現在のあんぽ柿と区別して「黒あんぽ」と呼ぶ。 なお、五十沢は柿の栽培と干し柿作りに特に適した気候で、五十沢で栽培するとほかの地方よりも遙かに甘みが増すことが大正末期の品評会の記録に残る。福島盆地の北端の南斜面に位置するために日照量が多い、内陸性盆地型気候で寒暖差が激しい、西日本のように台風の被害を受けることが少ない、土質などの複合要因が、五十沢が柿栽培に適している原因と考えられる。

大正年間の中頃、五十沢村の隣村である大枝村出身の佐藤福蔵が米国カリフォルニア州に行ったときに、干しぶどうの乾燥に硫黄燻蒸を行っていることを知り 、これを兄の佐藤京蔵に伝えた。京蔵は干しぶどうの硫黄燻蒸をあんぽ柿に応用すべく研究を進めたが完成せず、その後、五十沢の鈴木清吉、曳地長平、岡崎幸三郎、飯沼庄三郎、曳地宗三郎、佐藤太郎右衛門、宍戸与惣次、岡崎文太郎、岡崎広七、小野良蔵らが中心となって黒あんぽの改良研究をすすめ、試行錯誤の末に1922年(大正11年)に現在の硫黄燻蒸あんぽ柿の原型が完成した。翌1923年(大正12年)11月3日にあんぽ柿出荷組合を創立し、あんぽ柿の出荷を始めた。

1929年(昭和4年)に五十沢小学校農業教師として赴任した佐藤昌一(まさいち)の指導もあり、五十沢全域にひろがった。あんぽ柿出荷組合は当初五十沢農協に引き継がれたが、その後の農協合併によって、梁川農協、伊達みらい農協へと引き継がれたため、その過程で「五十沢のあんぽ柿」という登録商標は失われた。

昭和40年代に五十沢が全国の農業団体の視察を受け入れたため製法が全国に伝わり、現在では全国各地の主に山間部で作られている。

背景
あんぽ柿誕生の背景には、日本の生糸市場の衰退がある。幕末から明治期の福島盆地一帯(特に現在の伊達市、福島市飯野町と川俣町となる東域)は全国有数の養蚕地帯であった。五十沢の農家も養蚕で潤い、小規模ながら製糸工場などの施設もあった。しかし、生糸相場の変動の幅の大きさが問題であった。相場の変動によって、大もうけすることもあれば、破産する農家もあったのである。さらに、大正期に入って生糸市場の斜陽化の兆しが見え始めた。そこで、五十沢の有力者たちは養蚕に代わる新しい農産物の模索を始め、その結果、あんぽ柿が誕生し、また、後にリンゴや桃の栽培にも力を入れて、現在の果樹中心の農業の基礎を打ち立てた。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

渋柿を硫黄で燻蒸した干し柿なんですって。びっくりしました。

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